陽幸社40年の歩み

「人」に悩み、「人」に助けられ、「人」に支えられた四十年

第一部 会長 大西幸造編【創業】

裕福だった生活を、次々と襲う逆境との葛藤

昭和三年 関東大震災の爪痕が、色濃く残る東京、日本橋区城辺河岸にて、創業者である現会長、大西幸造生誕。当時、父親は材木屋を経営。十三人の従業員を抱える大きな店で、比較的裕福な家庭に守られ、何不自由なく育つ。

昭和五年 昭和の大不況勃発。小資本の銀行はバタバタと倒産する中、父の店もアメリカに発注した材木を積んだ船が転覆。商品は届かずに借金だけが残る。この頃から一家の切り詰めた生活がスタート。

昭和十八年 父が脳溢血のため急死。会長、旧制中学四年、満十五歳。この時、時勢は太平洋戦争真っ只中。戦況は劣勢の色濃く、本土空襲の危機迫り、国が奨励する疎開を決める。

昭和十九年 愛知県豊橋市に疎開。五年生に転校編入。一年間は、学校に一度も行くことなく、学徒動員で軍需工場にて、精一杯働く。

昭和二十年 工業専門学校に進学も、一ヶ月足らずで空襲を受け学校崩壊。その日、三度受験した海軍幹部候補生採用試験の合格入隊通知を、焼土の中、母が必死に歩いてもたらしてくれる。数日後、入隊教育中の八月に終戦を迎え帰省。豊橋の住まいは焼け出されたが、東京の家は罹災を免れる。

昭和二十一年 日本大学の専門部(商科)夜間に進学も、自宅が火事にあう。昼間は建築会社でアルバイトしながら生活費を捻出。父親を意識して商人を志向するも、進むべき道は、この時点では迷っていた。

六年間に六度の転職を余儀なくされた不運の社会人生活

昭和二十五年 カーバイトを扱う社員六人の会社へ就職。しかし一部社員の突然のクーデターにより、一年後に倒産。

昭和二十六年 突然職を失ったものの、生活の為に友人と二人で独立。しかしその友人がお金にルーズで、飲み食いの為に散財。事業から身を引く。

昭和二十七年 気を取り直して印刷用紙を扱う商社に入社。ところが、あろうことか社長が囲っていた愛人と逃亡。この会社も入社後一年で倒産。債権者から頼まれ、残務整理を手伝う。

昭和二十九年 債権者の紹介で同業の別会社に就職。今度こそはと思っていた矢先の一年後、融通手形による連鎖倒産。会社整理の手伝いをしている間、自分は商人向きでないことを悟り、方向転換を考える。

現社長 大西英資 誕生

昭和三十年 短いながらも四社で勤めた経験から、父親と違って商人よりも製造業の方が向いていると、自覚する。自分の悪因縁を自覚し、製版会社へ入社。が、しかし社長が脳溢血で倒れ、突然の他界。五度目の転職は僅か1ヶ月で終わる。この頃、さすがに自分の人生が不安になってくる・・・・・。

昭和三十一年 新しく製版会社に内定が決まったものの、給料が今までの半額という条件に躊躇する。「お金を貰って、仕事を教わることほど、有り難いことはない。」母親のこの一言で、入社を決意。結果的にこの会社に十一年と半年間勤め、製版の仕事が天職となる。

昭和四十年 やっと掴んだ安定した職業と生活の中、長男の英資(現社長)を授かる。

転職から天職へ。母の教えの「お陰様」の心をもって会社設立

昭和四十二年 いよいよ念願の起業を決意。六ヶ月の猶予をい頂き、三月に独立の依頼退職を申し出る。社名は前職の社長から社名の一文字を授かり、幸陽社と命名していただくも、「お世話になった会社の文字が後付けとは、罰があたる。」との母の忠告を受け、「陽幸社」とした。二十八坪の自宅の敷地で、社員1人、アルバイト1人から事業をスタートする。

前職の会社から、一部門の仕事に関しては、得意先に営業活動しても良いと、承認を頂き、活動を始めるも、唯一の社員がお昼に出たまま、夕方まで帰らず、そのまま帰宅する等、「人材」に悩む。募集広告を打っても、無名の零細企業に来てくれる人はなかなか現れず、創業当時は「人」が悩みの中心となる。

昭和四十三年 資本金百万円をもって株式会社に組織変更し登記する。

当時の会長夫妻

時代は高度成長期の真只中。仕事の受注には困らなかったものの、人手不足は深刻。夫婦共々、社員が帰った後も校正刷版の焼き付け、外注先への持ち込みと引き取りをこなす。時に製版外注は原稿とネガフィルムを揃え、発注先によっては配達と引き取りを繰り返す。これらの仕事は常に深夜の二時・三時に及び、このような生活が連日続いた。二人の子どもたちに手をかけられない状況が続く。

昭和四十五年 自動化がまだまだ珍しかった時代に、積極的に設備投資し、省力化を推進。それでもまだまだ、人の手による職人芸が不可欠な時代だった。

昭和四十九年 日本中を震撼させたオイルショック時も、仕入れ各社の優遇協力により難を逃れる。この時に「お陰様」の心を、改めて強く意識する。

「要領」の悪さを「心」で補う、バカ正直経営を理念に

若い時の苦労や、両親の影響もあって「誠意を以て成す」を理念に、増収増益を継続。

  • 仕入れ先を大事にする
  • きれいな取引
  • 評判の良いお客様だけのお付き合い
  • 短納期の時勢に伴い、地域密着、地域に貢献

これらをモットーに、困難な内にも順調な時代を迎えることとなる。

昭和五十三年 資本金を八百万円に増資
縦型及び、懸垂型両用の独自考案による電子自動制御カメラを設置。業界の注目を浴びる。

昭和五十九年 モノクロスキャナーが開発され、スキャナート30を設営
コンピューターを使った機器の、モノクロ製版に対する開発が広まりつつあった。

第二部 社長 大西英資編【継承】

父親の偉大さを思い知らされた製版業界の現状と、未来への不安

業界全体の景気は頂点に達する。世間がバブル景気に湧くこの時期も、当社は本業の効率化以外の投資は一切行わず、堅実な経営を固持する。。この時、社員数は十七名。

昭和六十二年 大西英資(現社長)入社
入社直後、作業現場に配属された際の会社の印象は「暗い」「汚い」「危険」の3K事業。帰宅は午前様が当たり前。仕事のキツさ、地味さ、細かさに愕然。入社してみて、初めて父親のやってきた事の偉大さを知る。同時にこの状態がいつまで続くのかという不安に襲われるも、コンマ1ミリの手作業をこなしながら、いつか自分が状況を一変させようと、この時決意する。

昭和六十三年 大西英資(現社長)営業部に配属
訂正対応の多さから、納品までに何度もお客様への訪問をくり返す。手間ひまが掛かるからこそ、誠実な対応が生き残りの術だと知らされる。ただ、業界全体の停滞ムードと、請け負いに頼ったビジネスモデルに、将来への不安を感じ始める。

未曾有の危機に直面した、「昭和」との別れと「平成」の始まり

平成二年 日本経済を根底から振るがしたバブルの崩壊・・・・・更に追い討ちをかけるように業界をデジタル化の急速な波が襲う。人に助けられ、人に支えられて順調な経営を続けていた当社に、未曾有の危機が忍び寄る。
この状況に同業の経営者の中には悲観的な声をあったが、大西英資(現社長)としては、親の背中を見て育ったこともあり、どんな困難も超えていける自信と、慎重さ、大胆さを受け継いでいた。

平成四年 経営の根幹は「人」との考えの元、時代を担う人材を育成する為、新卒者の採用をスタート。

平成五年 Macintosh Quadra 650 を導入
当時、周囲の同業者は未だ誰も導入していなかったDTPの設備を導入。デジタル案件はゼロの状態で、孤独な模索が始まる。

平成七年 資本金を 一千万円に増資

平成八年 社長(現会長)の反対を押し切って、デジタル生産体制強化の為に四千万円を投入。当時、導入したデジタル機器を把握しているのは、社内では大西英資(現社長)ただ一人。従来の製版の案件は急速に減少している中、デジタル案件は依然ゼロの状態。イチかバチかの孤独な賭けに出たはいいが、連日連夜、不安で眠れない夜を過す。

平成九年 徐々にデジタルの仕事が入り始める。今だから言えるが、当時は全く前例が無い案件でも「出来ます!」と、カラ元気で受注。いただいた仕事を必死でこなしながら、知識と経験を積んでゆく。

大事なモノの継承と、未来への進化の為の、勇気と決断の連続

大西英資 社長就任パーティー

平成十年 大西英資 社長就任

これまで現会長と、意見の相違で口論になることもあったが、いざ自分が社長と言うトップの立場に立って、経営全体を考えてみると、その責任の重さ、大きさに愕然とする。
ナンバー1とナンバー2の、あまりにも質が違うそのストレスから体調を崩す。
1ヶ月間、自分の器の小ささを悲観したが、腹をくくって未来に立ち向かう事を誓う。

平成十一年 Avanas Multi Studil 導入。
MicroSoft Office データの出力安定化を図る。
Windows DTP 本格化。

現状の設備と技術だけでは長期的な採算化は不可能と判断。プラスαが必要と考え、印刷分野への進出を決断。印刷の仕事に関しては、仕事、知識、技術、人材、全てゼロの状態で五千万円を投入して RYOBI 3304 HA A3カラーオフセット印刷機を導入。CTP印刷の内製実現で、いよいよ印刷分野へ進出する。
震える手で借用書に捺印した体験によって、精神的にも社長としての自覚が強くなる。

カラーの内製化、印刷分野への変革を成し遂げたものの、依然として仕事はゼロの状態。この頃から営業の新規開拓に力を入れる。
挨拶、丁寧さ、スピード等、当たり前の事に意識を強くもつことから始める。

長年慣れ親しんだ旧社屋の看板

平成十二年 B全フィルムセッターLuxel F-9000 を導入。
デジタル出力の大判化と高速化を促進する。

地域の再開発に伴い、会社所在地を現住所に移転。
慣れ親しんだ古い木造社屋を離れる。

平成十三年 お客様に恵まれていたので、ここまで不当たりを経験することは無かったが、さすがにこの頃は顧客数の減少が深刻になる。更なる新規開拓を推進するために、その武器としてオンデマンド機の導入を検討。小ロット印刷の体制強化を図る。

ゼロックス社製カラー・オンデマンド機導入。

更に先へ行く為、生き残る為の終わり無き進化の旅へ!

平成十四年 この頃、老舗製版会社の倒産が続出。デジタル化により、アナログの製版技術が世の中から不要になることを確信し、印刷会社としての設備強化を図る。

平成15年 夏キャンプでの記念写真

菊4まで両面印刷できる RYOBI 524H を導入。印刷物の高品質化を目指す。

最大サイズA4のデジタル簡易校正機、スピードプルーフを導入。

平成十五年 ワークフローの安定化を図るため Extreme を導入。

カラースキャナー(平面)ラノビア導入。

平成十八年 アナログ、モノクロの製版会社からデジタル、フルカラーの印刷会社への変革に成功するも、時代の変化のスピードは、予測を超える。時代はソフトを求めている。これまでに親子2代と社員一同で積み重ねて来た経験、知識、設備をベースとして、これからはお客様が抱える問題解決のお手伝いができるよう、ソリューション型の提案会社を目指して、若い世代を中心に複数のプロジェクトを進行中。

強いものが生き残れるのではない。常に環境の変化に対応しつつ、変わる事を恐れず勇気を持って進化できるものが生き残る権利を得ることができる。創業から受け継がれてきた「真面目な仕事への姿勢」「正直できれいな経営」「若い力の結集」で、業界不況を突破し、社員全員の幸せと、お客様や地域社会への貢献を果たせるスペシャリスト集団に成長する・・・・・

私達はそう信じて、今日もまた前進します!